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JFEJウェブサイトでは新たに、いくつかの読み物掲載を始めます。
「現場レポート(仮称)」では会員からの投稿記事を掲載します。
「著者に聞く」は、環境に関わる新刊書籍を取り上げ、その著者に当会会員が聞きに行くインタビュー形式の読み物。
第1回として、「『奇跡の自然』の守りかた~三浦半島・小網代の谷から」の著者、岸由二さんに取材しました。

現場レポート

 (第2回) SDGs メディアはどう伝えるか ― ワークショップ参加レポート ー

「持続可能な開発目標(SDGs)ワークショップ~報道と社会共働:グローバルな発展と市民参画」が2017年6月26日、国連大学(東京都渋谷区)で開催され、メディアとしてSDGsをどう伝えるかを中心に議論された。

〈 JFEJ準会員・腰塚安菜〉

■17分野の目標169ターゲット、2030年までの達成目指す

SDGs(Sustainable Development Goals)は、「極度の貧困と飢餓の撲滅」など2015年までに達成すべき8分野21ターゲットを掲げた「ミレニアム開発目標(MDGs)」の後継目標として同年9月、国連加盟193カ国すべてが合意して採択された。「貧困をなくそう」「質の高い教育をみんなに」「気候変動に具体的な対策を」など17分野の目標と169のターゲットからなり、30年までの達成を目指す。MDGsが主に途上国を対象としているのに対し、SDGsは先進国も含めたすべての国を対象としている。

ワークショップには国連関係者や研究者、ジャーナリストら約60人が出席。国連広報センターの根本かおる所長は、「政府のSDGs推進本部が、民間の先駆的取り組みを表彰する『ジャパンSDGsアワード』を6月に創設、7月には日本など44カ国が国連で取り組み状況を報告。義務教育にもSDGsが組み込まれる見通しで、今年はSDGsにとって節目の年になる」とあいさつ、「社会的協働や市民参画を促す情報発信と共有が必要でありメディア・報道の役割が重要となる」と開催の意義を強調した。

質量とも遅れている報道、企画力でカバーを

開会・導入セッションに続いて4セッションが行われたが、特に「SDGs推進のためのメディアの役割」では、報道の現場にいるジャーナリストら4人が登壇、それぞれが、自らが関わった制作物の事例紹介とともに、SDGs報道の課題を報告した。

4人の登壇者はフォーリン・プレスセンターの赤阪清隆理事長(モデレーター)、共同通信社の井田徹治編集委員、NHKエンタープライズの堅達京子エグゼクティブ・プロデューサー、朝日新聞社報道局デスクの北郷美由紀氏。

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「メディアの役割」を論議するジャーナリストたち

まず、赤阪理事長は「SDGsの『持続可能な開発』というキーワードそのものが、分かりづらいし伝えづらい」述べて、SDGs報道の根本的課題を問題提起した。

井田編集委員は「SDGsは日本にとっても重要課題でありながら、報道量が質量ともに不足している」と現状を具体的に説明。例として、「目標12で『つくる責任 つかう責任』をあげているが、日本はレジ袋・ペットボトル使用量がまだまだ大きく、持続可能性への意識の低さが反映されている」との見解を示した。また、SDGsはストレートニュースでは伝えにくいことから、調査報道や企画記事としての報道を心掛けるべきだ、と語った。

堅達氏は、「気候変動を伝える番組制作に関わったことで、世界的に危機的な状況への意識を持ち始めた」という。SDGsを伝える報道はなかなか見てもらえないとしながらも、「今年1月には学生フォトコンテスト『わたしが観た、持続可能な開発目標(SDGs)』を放送、7月には海洋をテーマとした番組の放送を予定している」と視聴者に継続して番組を提供する自身の努力を語った。また、専門的な内容を「とにかく柔らかく作る」「さりげなく入れ込む」といった伝え方の工夫も提示した。

北郷氏は、クロスメディア化を進める自社の紙面・デジタル版でSDGsテーマが継続的な企画記事となった実績を報告。キャスターの国谷裕子氏が国連の責任者をインタビューした特集紙面を起点に、「教えて! SDGs(エスディージーズ)」として12回の企画記事を掲載した実績(5月10日~6月3日の間)を説明した。昨今のSDGsの世間的な盛り上がりが企業理念とも合致したことや、ストレートニュ ースでは取り上げにくかった問題を「教えて!」というワッペンものを利用することで出稿しやすくなったなど、社内で合意形成ができるまでの経緯を話した。

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北郷氏が担当した「教えて!SDGs」

質疑の中で、根本所長から「SDGsへの参画に伴う企業の痛みをいかに伝えるか」との質問が出され、登壇者からは「企業が本気で変わり、業界ごと変えていく必要があると伝えるためには『痛み』から逃げずに伝えていくべきだ」との見解があった。別の登壇者からは「(企業から)バッシングを受けるのは当たり前」と気概を込めた発言があり、具体的な事実や数字に基づいて政府や企業などを批判していくことが報道の役割との認識を示した。

他のセッションでも登壇した識者らから重要な指摘が多く出された。その一部を紹介する。

〈国連財団の小和田恒理事〉 SDGsについて、かつては南北問題に置き換えられた開発課題であるという見方と、冷戦後から現在に至るまで日本政府・企業・市民社会が包括的にアプローチしうる、新しい国際社会の課題だという見方の2つがある。MDGsまでの主要な流れだった「開発」文脈はSDGsにも引き継ぐべきであり、開発にどれだけコミットできるか、どれだけのアウトプットを生み出せるのかを念頭に置くべきである。

〈外務省の相星孝一地球規模課題審議官/大使〉 SDGs の特徴は互いに関連し合うこと。目標6(安全な水とトイレを世界中に)を例に、「世界人口の1/3がトイレを利用できないことで22兆円の損失がある」事実を受けて、「2030年までに野外での排泄をなくす」といった具体的ゴールが設定されている。

笹川平和財団の小林正典海洋政策研究所主任研究員〉 自らの専門分野が目標14(海の豊かさを守る)にひもづけられる。海洋汚染の削減や海洋資源の保全には、パートナーシップによって、社会の制度や仕組みの改革を促すことが重要だ。

■国連や教育機関との協働、一層の推進を

このワークショップに参加して、メディアはSDGsを生活者に伝えるためのきっかけづくりができるが、その社会的意義・参画意義を効果的に伝えるためには、伝える側がより一層の理解を深める必要があると思った。また討議の中で、「報道関係者ができることはビジュアル素材の提供や、著名人・最前線の現場の取材力」という講師の発言はとても納得できた。国際機関や研究教育機関など他のステークホルダーがそれを望んでいるとすれば、協働の余地はまだまだある、と考えられるのではないだろうか。

また、子どもの貧困などの国内の喫緊課題の存在が、「SDGsより優先すべきだ」としてSDGsへの共感が広がらない一因になっているのではないか気になっていた。しかし、ワークショップによって途上国のみならず、国内の子どもの貧困へのアプローチも目標1(貧困をなくそう)に組み込むことができ、SDGsが途上国・先進国の垣根を超えて国内の問題もカバーするものと改めて認識できた。

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討議結果概要をまとめた総括・閉会セッション

<了>


(第1回)タガメなど豊かな生き物の里、秩父に
たった一人で棚田を復元中、現在137枚

グサッ、中村眞一さん(52)がスコップを土に突き立て泥をすくい上げ、ふーっと汗をぬぐう。埼玉県・秩父の武甲山中腹にある耕作放棄で荒れ果てた棚田。タガメなど水生昆虫が姿を消していることに心を痛める中村さんは「生き物と共生した田んぼを自分で再生したい」と2年前から棚田の復元に取り組み、一人で130枚以上の棚田を手作業で復活させた。5月のある日、その「ひゃくいち(百一)たんぼ」を訪れた。

〈環境ジャーナリスト、滝川徹〉

ひゃくいちたんぼ周辺はハイキングコースだが訪れる人は稀だ

半世紀近くも見捨てられていた「ひゃくいちたんぼ」

ひゃくいちたんぼは埼玉県横瀬町、西武秩父線・横瀬駅近くの耕作放棄棚田で、周辺の山林も含めると2万㎡ほどの広さ。旅人が笠を置いて数えたところ百枚あり、立ち上がって笠をとるとその下にも1枚の田んぼがあったとの言い伝えから「ひゃくいちたんぼ」と呼ばれてきた。しかし、減反政策が本格化した1970(昭和45)年ごろ効率の悪い棚田を耕作する人が全くいなくなり、半世紀近く見捨てられていた。雑草が一面に生い茂り、棚田の畔(あぜ)は崩れて見分けがつかなくなり乾燥化。手入れされないスギ林がうっそうとして暗がりの藪山状態となり、一角には生活ごみが捨てられていた。

東京都生まれの中村さんは身長1m81cm、体重85kgと恵まれた体に男らしい風貌。建設業などしてきて、今は一人暮らしだ。昆虫大好き少年だったが先輩の影響でタガメやゲンゴロウに興味を持つようになった。「清瀬昆虫自然同好会」をつくって、水生昆虫研究家として里山の減少や農薬の影響で姿を消したタガメや大型ゲンゴロウを求めて全国各地の水辺や棚田などを訪れた。「(環境悪化に比較的強い小型ゲンゴロウは残っていても)大型ゲンゴロウを見つけるのに1年間、タガメは4年目に栃木県益子町で初めて出会えた」と話す。

「あんたも変わった人だな。タダでいいからやってみな」

秩父も何度も訪れ、地元では忘れられていたひゃくいちたんぼを知ったのは約20年前だという。石灰石採掘で山容が変わってきた武甲山(1304m)にも強い愛着を抱く。「ひゃくいちたんぼの一角からピラミッドのような武甲山が見える。雑木林、田んぼや畑のある里山をここに復元して、タガメなどがすむ場所をつくりたいと思うようになった」。親しくなった秩父市内の知人に相談、その熱意にうたれた知人が間に入って地権者に話をすると、変わった人だとあきれられながらも「何も利用していない土地。無償で貸すからやってみな」。地権者8軒から山林も含めて4300㎡を借り受け、2年前の4月から棚田復元をスタートさせた。

当時住んでいた東京都清瀬市から毎週土日に通ったが、重機が入らず手作業での復元開墾。まずうっそうとしていたスギ林をチェーンソーで枝打ちし、一面に茂っていた草を刈って農道を修復、大量のごみを片付け、田んぼを掘り下げて畔をつくった。泥で汚れた顔を汗が流れる、「お金にならないことをなんでやっているんだろう」と何度も自問したという。

水路を補修する中村さん

水路を補修する中村さん

 

一番苦労したのが水の確保。降った雨は地下に潜って地表を流れないため、上部の小さな水源から水道管を計40mほど引いてしのいでいる。作業道具や発電機、カセットコンロなどを入れる物置も設置した。「機械に頼らずなんでも自分で作業した。建設業をしていた経験が役立った」と振り返る。最初の年はイネ、セリ、ショウブを植えたが、イネは十分実らずイノシシ、サルの食害でほぼ全滅、シカは畔を壊した。それでも一枚一枚水田や池、畑を増やし続け、タタミ1枚ほどの大きさから座布団ぐらいまで大小136枚にまで増えた。今年4月下旬、秩父市内に家を借り、本格的に棚田復活に取り組んでいる。

カエル、トンボ…
棚田に帰ってきた生き物たち

訪れた日は棚田ではシオカラトンボが時々ホバリングしながら飛び交い、水たまりではオタマジャクシとアメンボがうざうざいる。ググ、グワッ、グワッとカエルの鳴き声があちこちで聞こえた。中村さんは草刈りが一段落すると、水路をふさいだ木の根を削り取った。ちょっと首をかしげるとスコップに持ちかえて泥をすくい、少し傾斜のあった田んぼの間に畔をつくった。田んぼが2つになり、137枚になった。

今度はたも網でオタマジャクシのいる水たまりをすくった。ぶよぶよした三日月形の塊を手に取って「これはトウキョウサンショウウオの卵嚢(おう)だよ、中に卵がある」「ここにいるカエルは7種類。いま鳴いているのはニホンアカガエル、ほかにアマガエル、ヤマアカガエル、モリアオガエル、ヒキガエル、トウキョウダルマガエル、そしてシュレーゲルアオガエル」と教えてくれた。

トウキョウサンショウウオの卵嚢(中央)とオタマジャクシ

トウキョウサンショウウオの卵嚢(中央)とオタマジャクシ

中村さんがゲンゴロウやミズカマキリなど水生昆虫の話をする時の目元は柔らかだ。「タガメは日本最大の水生昆虫。オスが求愛ダンスして、水草などにメスが産卵するとオスがふ化するまで卵塊を守る。メスの方が大きく、エサが不足するとメスがオスを捕食することもある」とメス優位の生態を説明してくれた。また、「農薬の空中散布中止などから一部にはタガメ、ゲンゴロウ、ホタルなどが復活する動きがある。ただマニアによる乱獲がなくならないほか、棚田が耕作放棄されて水のない藪山状態になって生そく場所そのものが消滅しつつある。それが一番の問題」とも話した。

山間地の階段状水田が一般的に棚田と呼ばれ、2005年農業センサスでは「傾斜地に等高線に沿って作られた水田は全国で13万7578㏊」とされる。農林水産省は「日本の棚田百選」を選定して(1997年)保存につとめるが、機械化が困難なうえ農家の高齢化もあって耕作放棄に歯止めがかかっていない。大山千枚田(千葉県)、姥捨(長野県)、白米千枚田(石川県)などは観光地化やオーナー制度などで生き残りを図っているが、耕作放棄された棚田そのものを復元する中村さんのような試みは非常に珍しいと言える。

中村さんは「地元の人たちのサポートによってここまでくることができた。まだまだ大変だけど、武甲山のふもとに棚田を含めた里山を復元して多くの生き物が暮らす場をつくりたい」と意気込んでいる。

<了>


著者に聞く

第1回:「『奇跡の自然』の守りかた~三浦半島・小網代の谷から」

三浦半島の先端に広がる「小網代(こあじろ)の森」。ここは、森から湿地、干潟、海まで一つの流域が自然状態のまま残されている、首都圏では唯一の場所だ。1980年代にはゴルフ場などの大規模開発が計画されたが、1995年に自然環境の保全が決まり、現在は、2000以上の希少な生物や自然を観察できる場所として整備が進んでいる。

この「小網代の森」を残すための環境保全運動は、実にユニークだ。開発に真っ向から反対するのではなく、町と自然が共生するための都市開発の代替案を提示し、結果として、「小網代の森」を保全する方向に導いた。その、30年以上にわたる活動を記したのが、「『奇跡の自然』の守りかた~三浦半島・小網代の谷から」である。著者の一人である、NPO法人小網代野外活動調整会議代表理事の岸由二氏に聞いた。

(聞き手/高田功、大曽根薫)

──本書を執筆した経緯をお聞かせください

岸由二・NPO法人小網代野外活動調整会議代表理事 小網代の森の保全運動は、とても長い歴史があって、始まったのは1983年です。当時、慶応義塾大学の同僚で、物理学を担当する教員だった藤田祐幸さんから、「転居先の三浦市に、すばらしい森がある。開発されるかもしれないので、なんとかして守りたい。一度現地を見て、保全に協力してほしい」との話があったんです。

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『「奇跡の自然」の守りかた』

岸由二、柳瀬博一著 筑摩書房(ちくまプリマ―新書) 定価880円+税

藤田さんは、当時、〝ポラーノ村を考える会〟という環境問題を考える市民団体の代表をしていました。「ポラーノ」とは、作家・宮澤賢治の童話に出てくる、広場の名前です。人と自然の共生に深い関心を寄せていた賢治は、理想の共同体をテーマにした童話を書いた。それが会の名前の由来となっています。藤田さんは、当初、ここを原生林だと思ったようですが、1960年代まで、田があり、民家があったところです。開発にむけて農作業が終焉して、浦の川の流域全体が自然のまま残されたのです。

私は、それ以前に、横浜市の六大事業に関連した、自然保護運動に関わっていたのですが、政治団体などにもみくちゃにされ、しばらく市民運動から遠ざかりたいと思っていました。また、当時は、河川の流域という枠組みで自然保護や資源管理、都市の再生を考える「流域思考」を、神奈川県の鶴見川でやっていこうと考えていたところだったのです。

ですが、藤田さんから「とにかく現地を見てくれ」と言われ、84年の秋に見に行ったんですよ。

しかし、その森を見たとたん、「ちょっと待て、こんなすばらしい環境が残っているんだ」と。「これは生涯をかけて関わっていかなくてはならない、ここでパスしちゃったら後悔するな」と思い、鶴見川流域の活動をしながら、藤田さんと一緒に小網代の森を保全する運動に関わることになったのです。

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NPO法人小網代野外活動調整会議代表理事
岸由二(きし・ゆうじ)氏

1947年東京都生まれ。横浜市立大学文理学部生物科卒業。東京都立大学理学部博士課程修了。専門は進化生態学。慶應義塾大学名誉教授。流域アプローチによる都市再生論を研究・実践。NPO法人小網代野外活動調整会議代表理事。著書に、本書の他、『自然へのまなざし』、『流域地図の作り方』など。訳書にウィルソン『人間の本性について』、共訳にドーキンス『利己的な遺伝子』など。

そこから今日まで、保全運動は30年以上にわたるのですが、組織も変遷してきました。小網代の活動は、1983年に〝ポラーノ村を考える会〟でスタートし、藤田祐幸と岸由二が基本のビジョンをまとめて、そのビジョンのとおりにやってきたんですけど。そうじゃない、別の団体が始めたんだ、と言い出す人がいて……。『出雲風土記』と『日本書紀』みたいなものですね(笑)。

それぞれが語る歴史が異なってしまうのはまずい。ここで正しい小網代の自然保護運動の歴史を書き記しておこう、ということで、本書を執筆することになったのです。たまたま、左足の股関節の手術で、2週間ほど入院することになり、共著者の柳瀬博一と編集の鶴見智佳子さんがやってきて、「これは、ちょうどいい機会だ」と。「とにかく原稿書きなさい」と(笑)。そこで書き下ろしました。

──書名では、小網代の森を「奇跡の自然」と称しています。どんなところが「奇跡の自然」と呼ぶにふさわしい場所なのでしょうか。

岸代表理事 三浦半島にある小網代の森は、浦の川の源流から河口までが、面積約70haの流域まるごと、ひとまとまりの緑に覆われています。途中が、道路や家屋、施設などで分断されていません。この規模で、源流から河口までが手付かずで残っている場所は、首都圏では唯一、小網代の森だけなのです。全国でも数箇所。宅地開発が進む首都圏で、まるごと残っているのは、奇跡というほかありません。

また、ここには、保全運動の象徴になったアカテガニをはじめ、約2000種の希少生物が生息しています。森に棲むアカテガニは、夏の大潮の晩に、お腹に抱えた子(幼生)を海に放ちます。これは森から海までが、分断されていない環境だからできることなのです。

──本書は、おもに小網代の森を守るための保全運動と、環境保全の考え方について述べられています。環境保全運動については、展開が独特ですね。

岸代表理事 ゴルフ場や宅地造成などの具体的な開発計画は85年頃に出てきました。それに対して、〝ポラーノ村を考える会〟が推進している環境保全運動のビジョンを書こうということになり、藤田さんと私がまとめました。基本的には、〝町と自然の共生〟を謳っており、開発反対、じゃないんですよ。代替案の提示なんですね。

いろいろな経緯があって、私も藤田さんも、都市計画の知識がありました。170haくらいの大規模開発なので、ゾーンを分けて土地の利用区分をし、都市の基本構想を自分たちで書いてしまおう、と。中途半端にここだけ守れとか、この動物や植物が大事だ、ではなく、「開発には賛成です。ただし、計画の中身を一部変えましょう」という提案をしたのです。

というのは、開発計画自体は、鉄道の延伸、道路の拡張、住宅建設、農地造成、ゴルフ場建設という5点セットだったのですが、そのうち、ゴルフ場以外は、三浦市の都市インフラとして必要なものだったんですね。ゴルフ場は、開発のための資金源でした。当時はバブル経済の前ですから、ゴルフ会員権は高額ですよ。6000万円の会員権を売り、1万人の会員を募れば、6000億円でしょ。それを開発費用に充てようとしていたんです。ですが、私たちはバブルが飛ぶと思っていたので、ゴルフ場だけはやめて、エコリゾートとして使えるように保全しましょう、という提案をしたのです。

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当初から構想があった、湿原の中の木道

87年の時点で、〝ポラーノ村を考える会〟の提案を冊子にしたものがこれですが、当時から湿原の中に木道を通すイラストを入れています。今、小網代の森に行くと、まさにこのとおりになっています。

──最初から開発賛成と?

岸代表理事 小網代の保全を考えるにあたり、生態系重視でいくか、希少生物重視でいくか、検討をしました。当時、開発反対型の運動のほとんどは、希少生物がいるからこの地域を保全をしようという方向でした。私は、流域生態系の単位で自然や都市を考えることに強い関心を持っており、希少生物重視の運動では、都市計画との調整がつかず、環境保全の未来はないと思ってきました。

ですので、希少生物を調査するメンバーとは連携しながらも、生態系重視で、開発の代案や保全のビジョンをまとめようと……。そして、都市の計画との調整を図り、保全を現実のものにするために、「開発賛成」というスタンスでスタートすることを考えたのです。

──そのスタンスが功を奏したのですね。

岸代表理事 「反対」というと、開発を推進する側は、どうしても頑なになる。しかし、「開発は賛成です。でも3分の1は自然を残しませんか」と提案すると、相手は聞く耳を持つ。心を開く。「ちょっと聞いてみようかな」と思うのではないでしょうか。

そもそも都市は、みんな法律で縛られていて、環境を保全したいと言っても、みんな誰かの土地なんです。その土地に、子孫の繁栄を賭けているんですね。環境保全のためだからと、行政などに取り上げられてしまっては、たまったものではないのですが、なかなかそこのところがわからず、大声で反対を唱える人が多い。

それに、自然保護の運動を始めると、さまざまな人の思惑が入り混じってしまいます。政治団体の思惑や利権などが絡み合い、反対のための反対を唱え、あるいは政治家が選挙に利用する。あげく、当初の自然保護の目的はどこかに行ってしまう……というのが、運動の現実です。

──それから30年以上の環境保全運動を進めてきました。

岸代表理事 30年で、大きな結果が出ましたね。83年に〝ポラーノ村を考える会〟で、小網代の環境保全の運動がスタートしました。93年には、三浦市から、ゴルフ場の開発はないと内々に伝わってきていました。95年には県知事の長洲一二さんが保全方針を固めてくださったので、これでうまくいくという確信が生まれました。2004年には国の制度として、緩やかな保全が決まった。2015年には小網代の森を整備してオープンしました。

こう見てくると、10年が一つの区切りとなっているでしょうか。

──その間に組織も変遷していますね。

岸代表理事 この運動は、〝ポラーノ村を考える会〟からスタートしましたが、ゴルフ場反対の署名運動を進める中、メンバーから、三浦市長選に立候補したいという人が現れ、政治的な混乱が起こってきました。私は、政治運動と絡めるのは当初から反対でした。「開発反対」を掲げて選挙に出た人が負ければ、地元住民は開発が好きなんだ、ということになる。そうすると、開発推進派は無理にでも開発を進めざるを得なくなります。

そこで、政治を目指す人とは距離を置き、地元の市民と連携する「小網代の森を守る会」を、1990年に設立したのです。保護団体は、地元に根差していないと、所詮、余所者と言われてしまうということもありますから。

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小網代の森を保全するために執筆された、『この美しい自然を次の世代に伝えるために 小網代の森の未来への提案』(1987年9月 ポラーノ村を考える会)など

その後、この団体を基本に、小網代を保全する運動をしてきましたが、実は、神奈川県によって保全が表明された1995年から混乱の時代に入ってしまったのです。

というのも、保全は表明されたものの、県のどの部局が、どのような制度を利用して担当するのかが明確にならなかったからです。たとえば、都市公園決定をして公園になると、年間数千万円の指定管理費が出るんです。それが利権になり、どのセクションが管轄するかという争いにもなります。政治家や法人も動き出し、いろいろな団体が関わるようになりました。

そこで、1998年から、任意団体として小網代野外活動調整会議が編成されました。小網代に関わる重要な団体はすべてここに入り、それぞれが勝手な動きをしないように調整していく組織です。これによって、保全運動にかなり落ち着きが出たといえます。この会議は、2005年、NPO法人として自立し、現在も小網代を保全するために活動していますが、このような形にできたのは、元・神奈川県自然保護課の課長さんで、その後、かながわトラストみどり財団の事務局長となった本間正幸氏のおかげです。

──小網代の森の保全に大きな役割を果たした方ですね。 

岸代表理事 小網代保全の大きなターニングポイントとなった出来事の一つに、1990年、磯子のプリンスホテルで開催された国際生態学会議があったのですが、このときに、「岸先生の考えていることがわかった。小網代のことは命を懸けて進めるから、協力してくれ」と言ってくれたのが、本間氏です。NPO法人小網代野外活動調整会議をはじめ、政治家などに利用されないような仕組みを作ってくれました。

実は、財団の事務局長になったとき、すでにご病気を患っていたようです。「命を懸けて……」というのはそういうことだったか、と後にわかりましたが、お葬式のときに、奥様にお会いしたら、「うちの主人は、宮澤賢治の大ファンでした。ポラーノ村の理想に、共鳴したのだと思います」と言ってもらえました。

行政職員の中には、すごい人がいます。そういう人が力を発揮すると大きな結果が出ます。保全が確定する前に、お亡くなりになって、本当に残念です。

──本書の中のもう一つのテーマ、環境保全の考え方についてはどうでしょうか?  

岸代表理事 自然保護というと、「手つかずの過去の自然を回復する」と思う人が多いでしょう。でも「手つかずの自然」なんて、地球上のどこにもなくて、みんな手がついちゃってるんです。

小網代の森も、もとは田んぼです。田んぼじゃない頃は、縄文人がいて、山を焼いていて土砂がバンバン崩れていた。その前は、大氷河期ですから、海面がもっと低いんですね。その頃には、トンボやホタルもいないし、アユも上がってこない。真っ暗な森ですね。じゃあ、今、小網代をその真っ暗な森に戻すんですか、と。そういうことを考えずに、「手つかずの過去の自然を回復する」と唱えている人は、案外、多いんです。

どこに戻すのか。100年前? 1000年前? 1万年前? みんなが合意する「手つかず」は存在しない。だったら、今の人たちが決断して、どんな自然にするか、未来の課題として決めるしかない。「過去に戻す」のではなく、「創造する」ということですね。

小網代流域の現在のポテンシャルを利用して、小網代の生態系を保全するのであれば、水田耕作型の水循環を再生し、それを基盤に未来志向で多自然流域世界を創出するのが良いと、私は考えました。小網代の谷底部は棚田だったので、その水循環に戻し、しかしそこには稲は植えず、農業と共存してきた野生生物たちに解放してやろう、というのが私たちの考え方です。

この本に書かれていることは、運動の仕方や、生態系の保全の方式、多自然流域創出の方法など、皆さん、あまり聞いたことがないかもしれない。でもこれがむしろ国際標準なんですね。あと5年もすると、妥当な選択と、広く支持されるようになると思っています。

──小網代の森はもっと多くの人に知ってほしいですね。

岸代表理事 そうですね、もっとメディアで取り上げてほしいのですが。新聞やテレビでは、ほとんど報道されていません。こんなにすごいことをやっているのに。

企業と連携する団体の活動を、自然保全運動として記事にする方針はないと言っている新聞社の人もいるようですね。考え方の違いから、鶴見川や小網代の森の活動を報道機関に妨害されたこともありました。どうも、私はいろいろと誤解もされているようですし。

そうした中でも、しっかり連携・協働してくれた市民や企業があるから、今の小網代の森があるんです。ありがたいことだと思います。

──他の環境保全運動にも応用できるでしょうか?

岸代表理事 北海道や大阪などから、河川流域の再生について、鶴見川や小網代の森の視察に来て下さる人たちがいます。また、横浜市やJICAと一緒に、フィリピンで河川流域の防災などの支援もしています。小網代の森の活動が、必ずしも他でそのまま応用できるかどうかはわかりませんが、参考にはなるでしょうね。

──これからの小網代の森は?

岸代表理事 あと20年ぐらいで、形にはなると思っています。

森の整備に関して、NPO法人小網代野外活動調整会議は、県から管理費は受けていません。管理費というのであれば、たとえば小網代を都市公園決定するという方法もあるんですね。しかし都市公園の管理方式と、「奇跡の自然」である小網代流域の生物多様性創造は整合しにくいのです。そこで私たちは、神奈川県、三浦市、かながわトラストみどり財団、調整会議の4者で、役割分担を定める覚書を結んでいます。その覚書のおかげで調整会議は、独自の努力で寄付を受け、有料の流域ガイドを受託し、自然の冊子なども販売することができます。かながわトラストみどり財団からはまとまった交付金を受けます。代わりに私たちはトラスト会員の拡大を応援する方式になっているのです。

NPOとして私たちは、小網代の仕事を進めるスタッフに、1日6000円の日当を支払っています。昨年は仕事が多く、450万円ほどの赤字になりました。専従の人も雇いたいと思うのですが、現状では厳しい。中小企業の社長のように、いつも資金繰りを考えていますね(笑)。

小網代は今、ようやく中央の谷の低地部分の5haほどの領域の全面湿地化と、基本水系の整備が一段落するところ。大小の枝沢(小流域)の整備はまだ入り口だけで、本格整備はこれから。干潟保全の確定も視野に入れると、10年、20年はかかるでしょうね。

資金など悩みはつきませんが、道筋は見えています。皆さん、これからも小網代の森をウォッチしてください、そして、ぜひ現地に来て、応援してください。

<了>

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[最終版]「奇跡の自然」の守りかた書評原稿 201706061

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